
2007.01.19 Friday 02:29
身上話

今年も変わらず、今日は世界で一番大事な人の命日でした。
と言う事で、もう二度と帰るまいと思っていた実家にどうしても帰らねばならず、1週間北海道におりました。
明日には東京へ戻ります。
以下余談。
私の実家には、どの部屋にも沢山の大きい窓があります。
天気の悪い日でも、北西向きの部屋でも、何時でも本当に沢山の陽の光が入ります。
幼少の頃、自分の自宅だけ沢山窓やベランダがあった事がプライベートの切り売りのようでとても嫌だったのですが、今思えば、家じゅうが光いっぱいに、常に家族が陽に照らされるように。
そのような漠然とした愛情のひとつの形が、この家の窓の多さなのではないか、と帰省した1週間、何をするでもなく、ただひたすらぼーっとしながら思いました。
夜間カーテンを閉じなければ、街路灯と、街路灯の光が雪で照り返される光量だけで、どの部屋もそこそこ明るく、どうせ何をするでもないので、部屋の電気もつけずに1週間ずっと自分の部屋で、深夜から朝まで窓際で考え事をしてばかり居ました。
そんなに窓を一杯作ったって、そんなに家中に光を呼び込んだって、
あたしの実家には普段、一日中誰も居ません。
なんだか、単にそれだけの事が物凄いそれが悔しくて、この家に窓が沢山あるって言う事実を一生懸命記憶しておこうと思って、毎日朝まで窓の外だけを見続けていました。
それ程遠くない将来、どんどんこの家の事、この家に住んでいた人達の事が忘れられて行って、庭の花や木の手入れをしてくれる人が居なくなってしまったら、あたしが自分で家を始末しなきゃならない。
自分で家中の物をダンボールに詰めて捨てるなり、どっかの業者に頼んでクレーン車だか何だかで家を片っぱしから潰すなりする。
今は何処にあるか解らないけど、将来家中の物を捨てなきゃならない、となった時に、父が買ってくれた、きったねぇ字であたしの名前が書かれたサッカーボールとかテニスのラケットとか、母が作ってくれたボロボロのスクールバッグとか、そういうのが色々出てくるんだろうな。
やっぱクレーン車で家潰す時って、脇であたしが現場見学してんのかなとか。
その時、やっぱあたしの事だから至って平静に料金払ったり、業者の人にお茶出すのかなとか。
自宅を潰してる最中に茶なんか出せないなとか。
漠然とそう思いながら、朝まで毎日泣きました。
あたしが東京に出てきたのは、何かやりたかったからではなく、単純に家を出たかったからだ。
要するに1人腰まくって逃げてきた訳で、だけどその時即に我が家は着実に崩壊に向かっていたし、あのタイミングで逃げなければ自分は絶対に死んでいたと思う。
今になって思うと、結局のところ、自分1人だけ死ななかった、それが何だと言うのか。
その選択が最良策だったのか、そもそも最良策の主語をあの時誰に取るべきだったのか。
などと言うウチの家庭の話は、「自分変わってるんです、人とは違うんです」と言うアイデンティティー主張と受け取られて自分の株を下げるだけであり、話してお涙頂戴するには詰まらない話過ぎて、数少ない人に断片的に知れてるにしろ、基本的には自分の心の中に普段乱雑に放っておいてある。
日常、そんな事で泣いてる暇なんかない。
色々思い出す度に、漠然と「暫く何処か、静かで、暖かいとこで休みたい」と思うけど、そんな都合のいいとこあったら、絶対そこから出て来なくなる。
つか多分そこ生きてる人間いないっしょ?って言う。
そもそも、本当に逼迫してる奴はホームページでブログとか書かない。
芸能人でもないのに馬鹿写真撮って自分の顔インターネットで流せちゃうようなレベルの知能程度や危険察知程度の人間の悲鳴は基本的に取るに足らず。
なんて言いながら、あたしはまた東京に戻って、何時も通り、今後もひねくれつつ、平静に、余裕綽々に暮らしてくんだろうな。
この日記も、後から見たら「何書いてんだ俺の馬鹿」って思うだろうな。
それでも、昔も、今も、黙って現実を受け入れて戦って、1人の居ないとこで泣いて、歯を食いしばりすぎて血の味がする。
いつか、実家の何処かから、サッカーボールやスクールバッグが出て来た時もやっぱ血の味がすんだろうな。
くだらない話。
くだらない本が本棚に残ってたんで、破って、ウチの庭に捨ててきた。
